ラブレター
 ルイスさんが、倒れた。

 あれから小さなニーナはすくすく成長し、どんどんきれいになっていった。もう小さくはないニーナは、アニエスそっくりだ。見かけるたびに、いつも嬉しさだけじゃない感情で胸が苦しくなる。アニエス、ニーナは君そっくりに育ったよ。とってもきれいだ。そしてトマも、ニーナと共に育った。
「やあ、おはよう」
 おはよう、トマ。今日もいい天気だね。使用人ではなくなったトマは、毎朝こうして僕にあいさつをしてくれる。頭に乗せられるぬくもりが、どこかルイスさんと似ていて。本当の親子ではないけど、こういう二人の似ているところを見つけるたびに、嬉しくなるんだ。トマ・フィリップがトマ・ルイスになってから、もう何年かになる。二人が結婚した後、ルイスさんはすぐにトマに席を譲ったらしい。この辺りの情報は全部ニーナから聞いた。彼女もまた、毎日一日の終わりにその日あったことを僕に話しに訪ねてくれるから。朝はトマ。日暮れにはニーナ。僕は幸せだよ、アニエス。僕の目の前にはアニエスの最高の笑顔。そしてその隣には結婚式の時に描いてもらったらしいニーナがいる。やっぱり、よく似ているよ。
 今日の窓ふき当番は誰だったんだろう。誰も現れないまま、夕方になってしまった。当番の誰かが、他の使用人に怒られないか心配だな。そうして、僕は知らされる。
「こんばんは」
 こんばんは、ニーナ。どうしたんだい? 元気がないように見えるけど。それに、いつもより早いね。仕事は終わったの?
「……あなたにも知らせなきゃと思って」
 ねえ、本当にどうしたんだい、ニーナ。後ろの絵と全く別人だよ?
「パパが」
 ルイスさん?
「パパがね」
 ああ、泣かないでニーナ。君に泣かれると、僕はとても悲しい。
 ルイスさんが、倒れた。泣きながら告げられた事実に、僕はかなり動揺した。毎日笑顔で一日のできごとを話してくれるニーナは、どこにもいない。僕が乗せられた台に手をついてうつむき、涙を流す。思えば今日は、朝から屋敷全体が騒々しかった。こんなに人の気配を感じたのは、ニーナとトマの結婚式以来だ。そう、のんきに考えていた今朝の僕。だからこそ衝撃は強く、ルイスさんが倒れた原因を話してくれていたみたいだけど、僕の頭には全く入ってこなかった。いなくなったニーナを心配したトマが探しに来るまで、僕は涙の雨に打たれ続けていた。この涙みたいに、君の悲しみも吸い込めたらいいのに。アニエス、僕はどうすればいい?

 次の日、僕は台ごと、移動することになった。どこへ、なんて聞かなくても分かる。廊下に並ぶたくさんのものも一緒に動かされたから。ルイスさんの部屋だ。僕とアニエスは、ルイスさんの横たわるベッドを挟むように配置された。最近見かけなくなったから、どうしたのかと思っていたら、こんなにやせ細っていたんだね。ぴくりとも動かないルイスさん。そんな彼の手を握り続けるニーナ。イスに座る彼女の隣に立ち、何かに耐えているようなトマ。他には、誰もいない。医者も、いない。

 毎朝医者がやってきて、ルイスさんと少し話す。そして軽く身体を診てから部屋を出る。その間のどこかでトマも毎朝やってきて、僕にもあいさつしてくれる。言葉は変わらないけど、状況は一変してしまった。もっと優しく笑って、トマ。二人が出て行くと、部屋の中には僕とルイスさんだけに。そこで初めて、彼は僕に話しかけてくれる。
「おはよう」
 おはよう、ルイスさん。ここから外は見えないけど、どんな天気かな?
「今日は少し曇っているから肌寒いな。君は何も着ていないけど大丈夫かい?」
 大丈夫だよ。僕には毛があるからね。寒くない。それよりルイスさん、寒いならトマに何か持ってきてもらったらよかったのに。
「あの時……。意識が遠のいたとき、ああ、これで死ぬのか、と思った」
 倒れたときのことを話すルイスさんは、僕を見ない。アニエスも見ない。
「そう思ったら、心残りが二つあることに気づいた」
 ほら、アニエスをご覧よ。すごく幸せそうじゃないか。きっと視線の先にはルイスさんがいるんだよ。ほら、見て。見るだけで心が温かくなるよ。ほら。
「一つは、アニエスの笑顔を今日は見に行ってない。すぐ脳裏に浮かぶけど、それとは違う」
 じゃあ今見て。後悔しないように、一日中見ていて。
「もう一つは、君だ」
 無表情な僕じゃなくて、笑顔のアニエスの方がいいだろうに、ルイスさんはこっちを向いた。まさか、死ぬ間際に僕のことなんて。
「感謝しているし、私自身も君のことが好きだ。なのに、名前を思い出せないまま死ぬのか、と思った。あの時ほど忘れたことを後悔したことはない」
 いいんだっていつも言ってるのに。僕にはアニエスとの思い出がある。アニエスが僕の名前を呼ぶ、その声の記憶がある。それで十分なんだ。僕はエトワールだ。まだ自分の名前を忘れていない。それで、いいんだ。
「私は死ぬまでに、君のことを名前で呼べるだろうか。そうしないと、アニエスに会ったとき、何だか怒られるような気がしてね」
 そうか。それならしかたないね。アニエスはきれいだから、怒るととっても迫力がある。
『エトワール! 聞いて!』
 何だって聞くさ。でも、どうせなら笑顔の方がいいな。
『本当にあの人って他人をそういう目でしか見られないのかしら!』
 名も知らない誰かさん。君の代わりに僕がこの恐ろしい顔を見ておくから。だからどうかもう、怒らせないでほしいな。本当に怖いから。
『もう! 聞いてる?』
 聞いてるよ。聞いてるから、早く笑って。僕は笑顔の方が見たいんだ。アニエス、君の笑顔は最高だから。ね、笑って。
「おや、耳のところがほつれているみたいだ」
 ルイスさんが僕の目から視線を移して言った。
「夕方にはニーナが来てくれるだろうから、その時に頼もう。きっときれいに繕ってくれる」
 気づいてくれてありがとう、ルイスさん。
 そうしていつも通りの時間に部屋に入ってきたニーナに、ルイスさんは僕のことを伝える。
「ニーナ、この子の耳のところ、繕ってくれないか?」
 いったん出て行ったニーナは、裁縫道具一式を持って帰ってきた。アニエス、見て。ニーナが僕の耳を縫ってくれてるよ。僕からは見えないけど、きっと同じような器用な手つきでやってくれているんだろうね。君と同じ、優しい手だ。
「思い出すよ。アニエスも、そうやってその子を度々なおしてやっていた」
 懐かしむような表情で、ルイスさんは語る。その顔は、ニーナの向こうにアニエスを見ているようだ。アニエスは反対側にいるのにね。でも、そうだね。僕も思い出すよ。こうしてアニエスの膝に座るたび、僕の前には今みたいにルイスさんがいたこと。いつもそんな表情でアニエスを見ていたね。僕にとっても、懐かしい。
 僕はその瞬間、唐突に気づいた。ルイスさんがなぜ、僕の名前にこだわってくれるのか。
「ああ、早く君の名前を思い出したい」
 ずっと不思議だった。アニエスのぬいぐるみだった僕を、大切だと言ってくれる。アニエスが大切にしてくれていたからと言って、ルイスさんもそうしなきゃいけないわけじゃない。小さなニーナのおもちゃとして彼女の部屋に置いておかれていたっておかしくない。でも、僕をいつまでもアニエスのものとして扱ってくれた。分かったよ、ルイスさん。気づくのが遅れてごめんなさい。
「君はアニエスとの思い出を語ることができる、大切な友人だから」
 トマはもちろん、ニーナも、アニエスのことをほとんど覚えていない。使用人達とアニエスについて語り合うなんて、そう易々とできるわけじゃない。僕は、ずっとアニエスの側にいる。ルイスさんは出会った頃から知っている。彼女と彼の思い出は、僕も共有できるものなんだ。だから。ねえアニエス、僕は嬉しい。友人だって。ルイスさんが僕のことを友人だって言ってくれたよ。嬉しいと、幸せと、悲しいは、どこか似ている。
「さ、できたわ! ほら見て! きれいになったでしょ?」
 僕を持ち上げたニーナは、きっと笑っている。アニエスに似たその最高の笑顔で。
「ああ、うまくできてる」
「ねえパパ。この子っていったいいつからあるの? ママのものだったんでしょ?」
「私がアニエスに出会ったときには、すでに彼女の側にいたよ」
 ずっとずっと昔だよ、ニーナ。君が生まれたときも僕は側にいた。生まれてすぐは泣いていたけど、その後で見せてくれた笑顔は、やっぱりアニエスに似ていた。ね、ルイスさん。
 ニーナはルイスさんとたくさん話をした後、名残惜しそうにいつも部屋を後にする。今日だってそれは変わらなくて。
「じゃあね、パパ。また明日来るから。あなたも、またね」
 またね、ニーナ。
「ああ、おやすみ」
 ニーナは毎回、約束を取り付けるように、また明日と言う。不安、なんだろうな。アニエス、ごめんね。ニーナが悲しんでいるけれど、僕には何もできない。君のように素敵な笑顔を見せてほしいのに。何も、できないや。

 トマもニーナも、医者も使用人も、誰もいない時間帯がある。むしろそっちの方が多いのかもしれないけれど。そんな時間には、ルイスさんは度々僕とアニエスの思い出話をする。優しい笑顔と時折寂しそうな顔で、色んなことを話す。
「不思議だね。君と話していると、大まかにしか覚えていないこともだんだん細部まで浮かんでくる。不思議だけど、嬉しい」
 僕も嬉しいよ、ルイスさん。やっぱりアニエスのことでも、僕が知らないことはたくさんある。君の色んなことを知れるのは、いつになったって嬉しい。僕しか知らない君のことをルイスさんに教えてあげたいけど、そんなことできるはずもなくて。もどかしい思いっていうのは、いつになったって苦しい。

 そうして僕は、また一人、失う。

 昼頃から急に降り出した雨は、激しく窓を叩いている。朝にトマが入ってきたとき、ドアの向こうにあった窓から大きく揺れる木が見えた。きっと、それも相まって、今は嵐のようになっていることだろう。嵐は僕の心を揺らし、そしてルイスさんの体調まで揺さぶったようだ。慌ただしい室内。この時間にいるはずのない人々。涙の止まらないニーナ。焦りを隠しきれないトマ。そんな中、いつもは最高なアニエスの笑顔が、少しだけ異質に見えた。僕はいつだってどうすることもできない。ただそこにいて、全てを見ているだけ。
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。開け放したままのドアの向こうに見える窓の外は相変わらずの嵐で、おおよその時間さえ把握することができない。今日はずっと薄暗いな。空も、屋敷も。
 医者が何事かを言うと、辺りが静まりかえった。何を言ったのかどころか、今までの騒々しい空気さえ、僕には聞こえてこなかった。ルイスさんと、その向こうのアニエスだけをずっと見ていた。だから、静かになった理由も分からないし、ルイスさんの目が開かない理由も分からない。ニーナがよりいっそう涙を流す。こらえきれなかったのだろう涙が一筋、トマの頬を伝う。それで、僕は気づいた。気づかなくてもよかったし、気づかない方がよかったのかもしれない。でも、僕は気づいた。アニエス。アニエス。僕の一番大好きで大切で、いつだって最高の笑顔を見せてくれたアニエス。僕は、君の次に大切な友人を、今からなくす。アニエス。どうか無事に彼と出会ってほしい。お互いの笑顔のために。どうか、再会してほしい。
「パパ!」
 突然、ニーナの叫びが聞こえた。視線の先には、ルイスさんがいる。目の開いた、ルイスさんが。ニーナを見て、トマを見て、そうしてアニエスを見る。もうきっと本当は動けないだろうに、僕の方を向くために、首を動かす。なぜか、驚いたような表情をしていた。あまり動かない表情でも、驚きは伝わった。そして、いつの間にか僕は暖かなものに包まれていた。 「……アニ、エス」
 やっぱりそうなんだね。そこにいるんだね、アニエス。泣きながら笑うルイスさんの顔は、確かにアニエスの存在を表していた。ああ、アニエス。アニエス。僕には見えないけれど、確かにそこにいるらしい。
「……あ、りが、とう」
 とぎれとぎれで、かすれていて、それでも声を出す。静かにまぶたが閉じられていくのがひどくゆっくりに見える。このときの言葉を、声を、僕は絶対に忘れない。
「エトワール」
 ルイス、さん? それは僕の名前? ねえ、それは、僕の名前だよね。窓を伝う雨がまるで涙みたいで。僕の代わりに泣いてくれているのかと思うと、不思議と気持ちは静かになった。周りも静かで、僕も静かで、そして気づいたときには暖かい空気は消えていた。
 トマ、ニーナをちゃんと支えてあげるんだよ。分かってると思うけど、ニーナは強くて弱いから。君も悲しいとは思うけど、ニーナを守ってほしいんだ。トマ、これから君はもっと忙しく大変になるだろうね。僕は何もできないけれど、応援はしているから。朝のあいさつを忘れたっていい。だから、ニーナと今までの自分の気持ちだけは、どうか忘れないで。そしてニーナ。いつか心からの笑顔を、アニエスによく似た、最高の笑顔を、いつか僕に見せて。
 僕の前にはあいかわらずアニエスの笑顔。ねえ、アニエス。さっきそこにいたんだろう? 君に伝えたいことが山ほどあったのに、一つだって伝えることができなかった。誰にも届かない僕の声。だからこそ言うことができる。――いかないで。今まで三度、そう叫んだ。アニエス、君がいなくなったときと、ルイスさんがいなくなるとき。もう一回は、さっき来た君に。もうどこにも行かないでほしかった。ずっと僕の隣にいてほしかった。諦めていたことなのに、いざ隣に君がいたかと思うと、気持ちが止まらなくなった。いかないで、アニエス。ずっと側にいて。アニエス。アニエス。でも、君はまたいなくなった。僕にとって生涯ただ一人の友人である、ルイスさんを連れて。アニエス、きっと君は今幸せだろうね。何てったってルイスさんといるんだもの。僕の名前を呼んでくれたルイスさんと。自分で自分に言い聞かせ続けていたのとは全く違う響きでもって伝えられた僕の名前。そう、僕の名前はエトワール。ルイスさんが名前を呼んでくれた。もう十分だ。もう、誰に呼ばれなくてもいい。もういい。ありがとう、ルイスさん。最期まで、幸せをありがとう。
 ねえアニエス。君に伝えたいことが山ほどあったって言ったけど、一番伝えたかったことは何だと思う? いかないで、よりも強い気持ち。伝わらないことは分かり切っていたけど、いつだって伝えようと必死だった。いつか届けばいいなって思ってた。愛してる。アニエス、僕は君を愛しているよ。今までも、これからも、何よりも。ずっと。