僕の名前はエトワール
 廊下に並ぶたくさんの芸術品。だけど、その中にひとつだけ、ぬいぐるみが混じっている。何の変哲もない台の上に乗せられた、少しよごれたそれ。色あせた毛色は、時間の流れを雄弁に語る。それが、僕だ。
「パパ、どうしてこの子はここに飾られているの?」
「それはね、この子が特別だからさ。ニーナ、君のようにね」
 僕のことを特別だと語るルイスさんは、この小さなニーナの父親であり、アニエスの愛する人だ。そう、アニエスの。ああ、アニエス、君はどうして――。

 ある日のことだ。僕がいつものように背中に日の光を浴びていると、小さなニーナがやってきた。そういうとき、彼女は決まって僕に尋ねる。
「ねえ、あなた、名前は?」
 僕の名前はエトワール。
「私はニーナっていうの」
 知っているさ。いつも見ているんだから。
「あ、あの!」
「え?」
 突然、窓の外から声がした。ここは一階だから別に不思議ではないけど、小さなニーナにとっては不思議だったみたいだ。
「あなた、話せるの?」
「や、えっと……、あ、はい」
 嘘だよ、小さなニーナ。その声は僕じゃない。窓の外にいる、小さな使用人の声だよ。だって僕には声なんてない。
「嬉しい! ねえ、名前を教えてくれる? 友達になってもいいかしら?」
 楽しそうな小さなニーナ。だけど、それは僕じゃないんだよ?
「……喜んで。えっと、名前は、その、ないんです、僕には」
 違う。違うよ。僕の名前はエトワール。
「じゃあ、あたしが付けてあげる! んーとね、ミシェルっていうのはどう?」
「ありがとうございます」
 嬉しそうに彼は言う。でも、やめて。僕はエトワールなんだ。……消さないで、僕の名前。
「もうすぐおやつの時間だから、もう行くね。また、来るから!」
 小さなニーナがパタパタと走り去っていった後
「トマ! トーマ!」
「はーい!」
 小さな使用人もここを離れていった。トマ、君がずっと小さなニーナを見ていたことは知っているけれど、これは、ひどいよ。

 あれから毎日のように小さなニーナは僕を訪ねてくる。いや、僕のふりをしたトマを。
「ねえミシェル、今日はね」
 そんな言葉から小さなニーナの話はいつも始まる。君の話を聞くのはすごく楽しい。だけどそれは、僕に向けられるものじゃない。
「それから、お友達はどうなったの?」
 トマはいつしか敬語を使わなくなり、密会は日毎賑やかになっていく。あんまり大きな声だと、誰かに見つかってしまうよ、トマ。でも僕はほんの少し、見つかってしまえばいいのにと思うんだ。でも、だめだ。小さなニーナが悲しむ。ミシェルが話さなくなったと、悲しんでしまう。アニエス。君によく似た小さなニーナは、君によく似て、笑顔がとてもかわいいよ。君もいつだって僕に、毎日たくさんの話を聞かせてくれたね。
『それでね、エトワール、あの子ったら本当におもしろいのよ?』
 そしていつしか君の話に、ルイスさんが登場するようになった。ルイスさんがどうしたこうした。そうやって僕に話す君の顔は、いつにもまして輝いていた。そう、まるで今の小さなニーナみたいだ。
「ミシェル。たまにはあなたの話も聞かせてほしいわ」
 小さなニーナ、いつになったら気づいてくれる?
「そうだね。じゃあ、この間庭師の人が話してた噂話を教えてあげる」
 僕はエトワールで、ミシェルじゃない。ミシェルはトマだ。でも、気づいたとき、小さなニーナの顔が曇るのだとしたら、それは僕の願うところではない。アニエスのように、いつだって笑っていてほしいから。
「今日も楽しかった! また、来るね」
 いつの間にか密会は終わったみたいだ。さあトマ。君も早く仕事に戻らないと。最近休憩時間が長いと怒られているだろう?
「また、ね」
 窓の外から溢れ出す空気は、やはりアニエスの側で感じていたのと同じものだ。
『エトワール。私今、すっごく幸せだわ!』
 ああ、アニエス、僕もだよ。でも、何故だか今、もし僕に涙があるのだとしたら、泣いているような気がする。

 トマが最近現れなくなった。やはり、賑やかな密会がばれてしまったのだろうか。少し前に、先輩の使用人に怒られているのは見かけたけれど、原因がそれかは分からない。
「ミシェル、急にどうしたの?」
 ある日突然話し始め、そして同じように話さなくなった僕に問いかける。でもそれは、どちらも僕じゃない。とにかく、だ。小さなニーナ、そんなに悲しまないで。
「ねえ、ミシェル」
 壁にもたれて座り込んでいる小さなニーナの顔は、台の上の僕からは見えないけれど、ひどく落ち込んでいる様子は伝わってくる。トマ、小さなニーナにこんなことをするなら、初めから話しかけないでほしかったよ。僕という存在を犠牲にしたこと、君は知らないだろうけど。でも、小さなニーナは知っていた。
「私、本当は知ってたの」
 優しくて、そして何より友達が嬉しかったから。
「ぬいぐるみのあなたが話せないことぐらい、分かってた」
 ああ、泣かないで、小さなニーナ。アニエス、僕はこういう時、何もできないのが本当に悔しいよ。
「窓の向こうに誰がいたってかまわないのに。どうしていなくなったの?」
 君の不安を取り除くことができない僕は、ただのぬいぐるみだ。
『どうすればいいのかしら……。私、パーティに誘われたのは嬉しいけど、初めてなのよ。エトワール、私みたいな庶民が行っていいものなの?』
 大丈夫だよ、アニエス。ルイスさんはドレスだって贈ってくれた。彼は君のことを本当によく分かっている。そのドレス、よく似合ってるよ。
『彼は私がどこの家かなんて気にしてないのは分かってる。でも……』
 僕もそれは分かってるさ。大丈夫だよ、アニエス。他の人も、君の美しさや優しさや気高さには、文句の付けようもないよ。心配しないで、アニエス。君は彼といればいいんだ。ルイスさんといれば、心配することなんて何一つない。彼は本当にいい人だから。
『あなたに話しかけてると、何だか慰められているみたい。だんだん気持ちも落ち着いてきたわ』
 よかった。さあ、そろそろ準備を始めて。ルイスさんが迎えに来るよ。
『ありがとう、エトワール』
 そう、僕の名前はエトワールだよ、小さなニーナ。
「ミシェル……。私のこと、嫌いになったのかしら」
 心配しないで、小さなニーナ。トマはそんな子じゃない。でも、どれだけ思っていても、アニエスのように、君には僕の言葉が、気持ちが伝わらない。大丈夫。これだけでも伝わればいいのに。
「また、来るわ」
 沈んだ気持ちのまま、小さなニーナは去っていく。トマ、僕は君が憎いよ。どうして僕の大切な、アニエスの大切な小さなニーナを悲しませたんだ。ああ、アニエス。君によく似た笑顔が消えてしまった。

 何日か続いた雨がようやく止んだ日の朝、廊下の窓拭きに現れたのはトマだった。端から丁寧に拭いていく。真面目でよく働くと噂のトマが拭いていく窓は、なるほど、とてもきれいになっていった。そしてとうとう、僕の隣まで。
「少しだけ、話を聞いてもらってもいいかな」
 仕事をしながらトマが言った。だめだって言っても、いいよって言っても、結局君は話すだろうから、いいよ、聞いてあげる。
「先に謝るよ、ごめん。こんなに大切にされてるんだ、君にも名前はあったろうに。僕のせいでミシェルになってしまって、ごめん」
 驚いた。ちゃんと僕のことを気にしてくれていたんだ。半分だけ許すよ、トマ。そして、君の予想通り、名前だってある。そう、僕の名前はエトワール。
「僕、実は、ニーナお嬢さんのことが前から好きなんだ」
 知ってるよ。いつもここで見ていたから。
「だから、ニーナお嬢さんが君に時々話しかけているのも知ってた。それで、思いついたんだ。僕じゃ、普通に声をかけることもできないから」
 君は使用人で、小さなニーナはルイスさんの一人娘だからね。悲しいけれど、それは事実だ。
「勇気を振り絞ってよかったと思ってる。あれからは今まで以上に毎日が楽しくて。時々、休憩が長いって怒られても、それでも、会いたかった」
 小さなニーナだって楽しそうだった。
「でも、もう、だめなんだ」
 どうして。小さなニーナも君に会いたいし、トマだって彼女に会いたい。それでいいじゃないか。
「一度、ミシェルが僕だってばれたらって考えると、怖くなって。怒られたってかまわないし、ニーナお嬢さんは僕が使用人だって知っても気にしない、優しい人だって分かってる。でも……」
 そうさ。小さなニーナはそんなこと気にしない。よく分かってるね、トマ。じゃあ、何が君を怖がらせているんだい。
「ルイス様に見つかって、もしこの家にいられなくなったらどうしようって」
 廊下の一番端、僕の横にある窓を拭き終えたトマは呟いた。
「そうなったら、父さんも母さんもここで働いているのに、迷惑をかけることになる。それに、ニーナお嬢さんにだって会えなくなる。そう考えると、怖いんだ」
 俯いていた顔を上げ、足下にあった掃除用具を全部持ち、
「聞いてくれてありがとう」
 そう言ったトマは、僕から離れていく。大丈夫だよ、トマ。ルイスさんはそんな人じゃない。僕は知ってる。心配しないで、トマ。とっても優しい人だ。それくらいじゃ怒らないよ。僕がどれだけ励まそうと思っても、トマの背中は寂しいままだ。また、僕の言葉は届かなかったよ、アニエス。悲しいね。

 まだ、トマの窓拭き当番は続いている。
「君はニーナお嬢さんに会うことはある?」
 毎日ここに来るよ。トマ、君を待ち続けている。
「元気でいてくれるといいな。あの笑顔が、すごく好きなんだ」
 もちろん僕も好きさ。だけど、君のせいで小さなニーナの顔は曇りっぱなしだ。僕の大好きなアニエスによく似たあの笑顔が、最近ではめっきり見られなくなった。
『聞いて! エトワール』
 何だって聞くさ。
『ルイスさんが、私の笑顔が好きって言ってくれたの!』
 何度だって聞くさ。そして何度だって思うよ。アニエス、君の笑顔は最高だよ。だからずっと笑顔でいてほしいんだ。僕の大好きなアニエスによく似た、小さなニーナ。
「自分で確かめればいいじゃない」
「!」
「私が笑顔かどうか、自分の目で見てよ」
 小さなニーナ、君は気づいたんだね。ミシェルの声が、トマと同じだってこと。
「そしたらすぐに分かるわ。あなたのせいで、笑顔でなんていられないってことが!」
 怒っている小さなニーナをきちんと見ることができないでいるトマは、寂しさを背負った背中を僕に向けて、俯いている。
「すみませんでした。ずっとだましていて」
 ああトマ、君は勘違いをしている。小さなニーナが怒っているのは
「そんなことどうだっていいの!」
 そう。そんなことじゃない。君は分かってると思ったのに。ああ、分かってないからこんなことになったんだっけ。
「どうして突然いなくなったの。私は友達だと思ってたけど、あなたは違った?」
 小さなニーナ、どうか泣かないで。
「僕は……」
 そうしてトマは話し始めた。この前僕に言ってたことと同じことを。よかったね、小さなニーナ。大丈夫だよ。トマは、君のことが大好きだから。もうこれで、僕はミシェルと呼ばれることはなくなりそうだ。アニエス、君によく似た小さなニーナの笑顔が、どうやら戻ったみたいだ。
「そうだったの……」
 トマが話し終えると、小さなニーナは、息を漏らすように呟いた。そうして元気よく顔を上げ、トマに向かって言った。
「パパはそんなことを気にするような人じゃないわ」
 そうさ。ルイスさんは大丈夫。
「むしろ、私に友達ができたって知ったら、きっと喜んでくれると思うの! パパは、そういう人なの」
 ルイスさんが大好きだと語る目は、アニエスを見ているようだ。
「それにね。私もあなたが大好きだから、いなくなられると困るわ。ね、トマ」
「はい!」
 小さなニーナに名前を呼ばれたトマは、とても嬉しそうだった。二人とも幸せそうに笑い合っている。ああ、アニエス。君もとても幸せそうに笑っていたね。
『エトワール! ルイスさんが結婚しようって言ってくれたの!』
 よかったね、アニエス。本当によかった。
『私今、すっごく幸せだわ!』
 これからもずっとその幸せは続いていくはずだった。僕は、その隣で君の笑顔をずっと見ていたかった。でも、その願いは叶わなくて。だから、次こそは、小さなニーナの幸せは、近くで見守っていきたいな。
「ニーナはいい友達を見つけたようだね」
 いつの間にかいなくなっていた小さなニーナとトマの代わりに、今度はルイスさんが僕の隣に立っていた。
「君は私の大切な人達をいつも見守ってくれている。本当に、ありがとう」
 ルイスさんだって、アニエスや小さなニーナの笑顔の元なんだから、僕からしたら感謝の塊だ。
「やはり、色があせてきているね」
 僕の頭に手が置かれる。優しくて大きな手だ。
「本当は君も、他の思い出も、一つの部屋にでもしまっておいた方がいいんだろう。でも、アニエスの笑顔に出会うには、これが一番だと思ったんだ」
 廊下に並ぶ、数々の思い出。あの日パーティに着ていったドレスや、初めて二人で旅行に行ったときに買ったオルゴール。アニエスが大事にしていた花瓶には、彼女の好きな花が生けられている。そして、廊下の一番端にいる僕と、向かいの壁にはアニエスの笑顔。結婚式の時に描いてもらった肖像画だ。他にも色々と並ぶのは、全てアニエスの思い出。
「今でも後悔している」
 ルイスさんはそう言いながら、僕をアニエスの笑顔の方へ向けてくれた。ありがとう。昨日の窓拭きの時から、少し見えづらかったんだ。
「すまない」
 謝ることはないよ。
「君の名前をどうしても思い出すことができないんだ」
 時々、ルイスさんは僕にこうやって謝ってくる。
「いつもアニエスが呼んでいたのに、どうして忘れてしまったんだろう」
 僕の名前はエトワール。アニエスが忘れない限り、僕は大丈夫。だからルイスさん、どうか笑っていて。僕の大好きなアニエスによく似た、小さなニーナのために。
『エトワール、私達ずっと一緒よ』
 ああもちろんさ。だけど……、君はどうして僕を置いていってしまったんだ。ねえアニエス、君は今でも幸せだろうか。僕の目の前の君はいつだって最高の笑顔だけど、今の君はどうかな。この廊下を通る度に声をかけてくれるルイスさん。君によく似た笑顔のかわいらしい小さなニーナ。ここは君の遺したものでいっぱいだ。だから僕はまだ幸せ。この幸せがなくなる前に、もう一度君に会いたいよ。
『私はアニエス。あなたは今日からエトワールよ』
 僕の名前はエトワール。アニエス、どうか君を、僕自身の名前を忘れてしまう前に、名前を呼んでほしい。僕の名前はエトワール。君とまた一緒にいたいよ。
もう、僕の名前を呼ぶ人はいない。