12 十年前のあの日
 店を出たリックが、ふらりと歩きながら再び話し始めた。
「それから一週間、俺たちは緊張しっぱなしだった」
 さっきまでいた食堂と同じようなにぎやかな通りで、この街の活気さがうかがえる。そこそこ広い道に、そこに並ぶ様々な店、そして道を行くたくさんの人々は誰もが笑顔ですれ違っていく。
「俺とハロルドだけ、な。キャナリーの町の人達は何も知らないまま、いつも通りの一週間を過ごしてた」
 ああ、その後何かが起こったんだな、とサブレは気づいた。話の流れからも予想できたし、何より負の感情に染まった彼の表情が雄弁に物語っていた。
「一週間経った次の日だ」
 悔しさ、悲しさ、やるせなさ、そして、わずかな怒り。
「やつが、町にやってきた」
 明るい空の下、幸せそうな空気に包まれたこの街で、何とも似つかわしくない話だとリックは他人事のように思った。忘れたいけれど、なかったことにはしたくないあの時の記憶の糸を、手繰りよせ手繰りよせて、今最高に気分が悪い。しかし、ここまできて最後まで話さないわけにもいかないし、自分たちの脳に刻みつけられたその名前の意味を、教えないわけにもいかない。
 深く、深く、息をした。

 それはそれは寒い日の夜だった。リックの体にはそうとう堪えるだろう寒さで、私でも暖炉の側から離れがたかったほどだ。窓を叩く風の音は、当たらなくても冷たさを感じるような気さえした。
「もう一週間になるな」
 言うと、半分閉じたような目でこちらを見る。
「あれからやつの動向は、情報として入ってきているのか?」
 吸血鬼ハンター独自の情報網で、私にはそれをうかがい知ることはできず、いつもそういう情報といえば、リックに頼ってきた。
「いや、何も。ビビッドから出たとも、まだいるとも、ほんとに何もだ」
「そうか」
 言葉のあとに、沈黙が居座った。本当に静かな夜だ。まだ寝るには早い時間だろうに、寒さからか通りには人の気配がない。どこも同じように暖炉の前に縮こまって過ごしているのだろう。それを想像して、少し、安らかな気持ちになったところだった。
「ハロルドさん!」
 扉の外から声がかかった。イスから立ち上がり、近づいていく。
「どうかしましたか?」
 後ろで、もぞもぞと動き出す気配がした。リックもきっと同じ事を思ったのだろう。扉を開けると、冷たい空気とともに、見知った顔の男が立っていた。
「先日ハロルドさんが探していると言っていた男が、さっき町に来たんですよ」
「今、どこに?」
「さあ。見かけない顔だったんで、声をかけてみたんです。もし旅の人だったらって宿を紹介して、そのときにクロードだって名乗ってましたね」
「じゃあ、宿か」
 いつの間にか後ろに立っていたリックが言った。 「しかし、本当にハロルドさんの知り合いなんですか? 怪しい雰囲気で、そうは見えなかったけどなあ」
 その言葉には苦笑だけ返し、ありがとうと言って家を出た。そう広くはない町だ。宿屋など数が知れている。知らせに来てくれた彼を置いて、二人走り出す。
「俺は東の方へ行く。お前は西側を頼む」
「ああ、……ソフィア!」
 探すまでもなかった。道の先に見えるあの影は、間違いなく彼女だ。夜は決して外に出てはいけないと言ってあったのに、なぜ。
 こんなにも私の足は遅かっただろうか。彼女からも私が確認できるほどまで近づいたとき、その後ろに黒い固まりが見えた。きれいにほほ笑む彼女とは対象に、驚きに見開かれる私の目。焦れば焦るほど動かないように思える足。焦る私に気づき、彼女が振り返った先には、見知らぬ男の顔。
「ソフィアー!」
 歯を突き立てられたのが先か、小さく息を飲む音が聞こえたのが先か。彼女を奪い取った時すでに遅く、なめらかな美しい肌には穴が開き、血が流れ出ていた。膝をつき、放心状態で彼女を抱える。そんな私とは違い、すぐに追いついてきたリックは、男の心臓を一突きした。
「ハロルド。おい! ハロルド!」
 中々反応を返さない私にしつこく声をかける。
「いいか、お前はソフィアを連れて自分の家に帰れ。ここは人目につきすぎる。俺はこいつを処分してからすぐに向かう」
 そうだ、いくら通りに人がいないとはいえ、あれだけ大声で叫んだのだから、誰かが窓から見ていてもおかしくない。あまり回らない頭でそこまで考えると、リックに頷いて見せ、私は家まで走った。全く動かない彼女を抱いたまま。

 誰も顔を上げていない。なんだ、情けないな。話している私の方が気丈じゃないか。もう空は日暮れ前で、一体あの二人は今どの辺りで遊んでいるのだろうと思考をとばす。
「流れていた血はすぐに止まった。そこは問題じゃない。彼女が起きないということが問題だった」
 アルフに至っては、顔を上げないどころか、私の腰辺りに頭を押しつけて泣いているようだ。
「アルベルトは知っているだろうが、血を吸われるだけで意識を失うなんてことはない。つまり、その時点で彼女が吸血鬼になろうとしていることは明白だった」
「なろうと、している?」
 ここまでは知らなかったか。
「そうだ。そんな一瞬で、人間から吸血鬼に簡単に変わるわけじゃない。全ての細胞が入れ替わる必要がある」
 通常なら徐々に入れ替わっていき、早いもので一ヶ月、部位によっては年単位での歳月がかかるらしい。それが、わずか数日で行われる。
「ゆっくりと自然に変わっていくものを、無茶な速度でするんだ。全て入れ替わるまでは、全身に激痛が走る。終わるまでずっとだ」
 吸血鬼の体が完成したとき、その痛みの記憶さえなくなってしまうと分かっていても、穏やかな気持ちで見ていられるものではなかった。
「痛みが始まると、叫び出すことは止められない。だから、そのまま家にいるわけにもいかず、近くの森に逃げ込んだ。リックと二人で暴れる彼女を押さえつけながらな」
 その後、手頃な洞穴を見つけるまでにだいぶ疲弊した。そしてこれからのことを考えるために、ライナスとドロシーを呼んだんだ。ソフィアを吸血孤児にしないために、生まれ変わったあと、言うなれば親代わりのようなものが必要だった。
「私がその役を担うべきだったのかもしれない。だが、全てを失い、新たな人生を歩み始める彼女の側に、ずっと居続ける自信が私にはなかったんだ。私は、逃げたんだよ」
「……でも! それは! それは! しかたのないことだと、僕は思います。ハロルドさんは悪くありません」
 どうやらアルベルトのそれに賛成しているらしく、私の後ろで大きく頭が動くのを感じられた。相変わらず額をこすりつけたままなので、赤くなっていないか心配だ。愛らしい、友人の彼女もまた、大きく頷いてくれた。
「ありがとう。……さて、ここからは簡単な話だ。目を覚まし、真っ白な状態の彼女をバース夫妻に引き受けてもらい、キャナリーの人達にはソフィアが死んだと伝えた。そうして、私はアッシュローズへとやってきたのだ」
 南のキャナリーからできるだけ離れた場所を選んだところ、この、最北の町アッシュローズになった。リックは散々反対し、冬には絶対訪ねないと豪語していたっけ。

 あの賑やかな町並みはすでに遠のき、再び森の中を歩く二人。
「キャナリーではソフィアは吸血鬼に殺され、その吸血鬼を俺が始末したことになっている。そしてハロルドはショックのあまり町から去った、と。まあ半分以上は本当のことだ」 「てことは、ソフィアさんて人は、あの吸血鬼のことを忘れたままなのか?」
「違うな。忘れたんじゃない、知らないんだ。だから今あの二人は、友人だ」
 ソフィアはもちろん、ハロルドもそう思っている。そう、思わざるをえない。
「これで分かっただろ? どうしてお前の名前が嫌われているか。他では名乗ったっていいんだが、俺とハロルド、あとはライナスとドロシーの前ではやめておいた方がいい」
 名前を聞いただけで殺しそうになる、と後に続けられては、首を縦に大きく振ることしかできなかった。
「でも、夜に外に出ちゃいけないって言ってたんだろ? なんでその日に限って外なんかに」
「あの日は寒かったからな。ほんとに寒かったんだ。ここはキャナリーだよな、って確認したくなるぐらい。だからソフィアは、ハロルドが家に忘れていった膝掛けを届けようとしたんだ。ないと困るだろう、って」
「優しい、な」
 小さく、呟いた。
「吸血鬼になっても、本質は変わらない。ソフィアは今だって優しくていい子だ」
 だからこそ、苦しいときもある。