10 むかしばなし
 私はその頃すでに吸血鬼で、彼女はただの町娘――そう、人間だった頃の話だ。私たちが恋に落ちるのに、さほど時間はかからなかった。ずっと昔からそうしてきたように、一日の長い時間を二人で過ごした。暖かな春の日差しも二人で浴び、暑い夏の日には川沿いの木陰で眠った。枯れ葉舞い散る中、肩を寄せ合って歩いたし、雪の降るような寒い日は暖炉の前で一晩明かしたりもした。幸せだった。幸せ、だった。

 扉を開けて入ってきたのは、アルフと友人と、見知らぬ少女だった。肩ほどまでのソフィアより濃い茶髪を二つに結んだ様は、きれいな顔立ちを幼くさせ、歳相応に見せていた。きっと十より少しばかり上だろう。
「ありがとう、アルフ」
 礼を言いながら立ち上がり、客人にソファを勧める。
「アルベルトは久しぶりだな。ところで、そちらのお嬢さんは? 見ない顔だが、恋人かな?」
 ほんのりと赤くなった頬が肯定を示した。
「初めまして、リリーです」
 そう名乗る声は透き通っていて、見た目通りの印象を受ける。
「えっと、ハロルドさんですよね? アルの友達の」
「ああそうだ。初めましてリリー、私は知っての通りハロルド・オールコック。よろしく」
 彼女はそれに対してにっこりと笑顔を作り、
「こちらこそよろしくお願いします」
 と言った。まだ幼い、純粋な子どもだ。アルベルトとは違う。彼は見た目こそまだ大人になりきれていないが、すでに三十年以上の時を過ごしている。
「私、アルの友達に会うのって初めてで。今日こちらに伺うって聞いて、すっごく楽しみにして来たんです」
 華やかな顔を向けられるが、少し、心苦しかった。彼女はきっと知らないのだろう。なぜ、アルベルトが友人に会わせないのかを。
「ハロルドさんも吸血鬼なんですか?」
「そうだよ。……君は、人間、だね?」
 ならどうして私の所に連れてきたのだろう。それほどまでに苦しいような顔をして。何が欲しかったのだろう。
「? ええ」
 確認するまでもなく分かっていたことだ。きっとアルフも気づいていただろう。その問いに、リリーは疑問符を浮かべながらも答えてくれた。そんなことを聞く理由がわからなかったのかもしれない。吸血鬼か、と聞くならまだしも。
「……アルベルト」
「ハロルドさんも同じなんですか!」
 今までリリーに向けていた視線を、彼に移した。悲痛な声と顔。突然の大きな声に、後ろでアルフがおろおろとしているのが気配で分かる。リリーも驚いているようだ。
「みんな、僕たちのことを心配という言葉を盾にして否定します」
「そうだろうね」
 彼らは人間と吸血鬼だ。
「ハロルドさんもそうなんですか? 僕たちを否定するんですか? ハロルドさんならそんなことしないって思ってたのに!」

 二度目の訪問者は、同じくマスターの友人だった。そして彼は今、泣き出しそうに叫んでいる。隣にいる彼女が人間であることは、僕の目にも明らかで、彼の周りの吸血鬼たちが二人に対して何を言うかも、安易に想像できた。
「どうして人間を愛しちゃいけないの? リリーなしではもう、僕は生きていけない。こんなにもおいしい血が、それを証明してる」
 愛する人の血は、極上の味がするんだとどこかで聞いたことがある。勢いをなくし、誰に向けてかも分からない言葉を吐き出す彼を、心配そうにのぞき込む隣の少女。マスターが、ゆっくりと口を開いた。
「だめだ、とは言わない。だが」
「嫌です!」
「アルベルト、何度言われたか知らないが、聞きなさい」
「嫌です! ハロルドさんならって思ってたのに。昔、人間の恋人がいたって言ってたから」
 初耳だ。僕の知らないマスターは、まだそこらじゅうに転がっているらしい。
「そんなハロルドさんなら、僕とリリーのことを分かってくれるって信じてたのに!」
「ちょっと待て。その話は誰から聞いたんだ。私はお前に話した覚えがないぞ」
「イアンの、お母さんから。……でもそんなこと今は」
「どうでもよくない!」
 マスターがこんなに声を大きくさせるなんて。初めてのことだらけで、僕の頭は混乱している。でも、一つとして聞き逃したくなかった。
「ドロシーは本当におしゃべりだな。しかも中途半端に話して、よけい話がややこしくなる」
「昔ってことは、その人は亡くなったんですか? だから僕にもそうならないようにって言うんですか?」
 矢継ぎ早に話す彼の声に混じって、この場にそぐわない声が屋敷のどこからか聞こえてくる。何だか楽しそうだ。
「違う。そういうことじゃない。第一、彼女はまだ生きている。お前もよく知っているはずだ」
「え? 僕、人間の知り合いなんて」
 優しさと切なさと悲しさと、他にも色んな感情を混ぜ込んだ表情をしたマスターが立ち上がり、向かった先は窓際。隣に立って見下ろすと、そこには
「まさか」
 イアンと、ソフィアさんがいた。驚いて隣を見上げると、僕のつぶやきを肯定するようにマスターが頷いた。
「ソフィアさん……? でも、彼女は吸血鬼のはずじゃ」
 アルベルトさんの声を聞きながら、僕は庭に咲いた花々で遊んでいる二人を見ていた。
「そうだよ。ソフィアは吸血鬼で私の友人だ。でも、昔は人間だったし、恋人だった」
「どうして。吸血鬼になって血が吸えなくなったからですか?」
 マスターはソファには戻らず、その場に立ったまま話を続ける。
「吸血鬼の間で禁忌とされていることがいくつかあるな。さっきお前が言ったことにも繋がる、人間以外の血を吸血してはならないというのもその一つだ。そして、吸血鬼ハンターに殺される要因にもなりうる、不用意に吸血鬼を増やしてはいけない、これもそうだ」
 コウモリの僕よりは吸血鬼のことを知っているだろうアルベルトさんも、真剣にマスターの話に耳を傾けている。人間であるリリーさんはなおのこと。
「じゃあなぜ、吸血鬼を増やすことが禁忌なのか知っているか?」
「生まれたときからそういうもの、と聞かされてきたので……」
 どうやらアルベルトさんは理由を知らないらしい。
「吸血鬼になると、人間だった頃の記憶を失うんだ」
 息をのむ音がかすかに聞こえた。
「それは人一人の人生を奪うことと同じだ。勝手に奪っていい人生などあるはずがない。だから、同意なき行為は禁忌とされている」
「じゃあ、ソフィアさんは……」
「もちろん、私と恋人同士だったことなど知らない」
 忘れる、じゃなくて失う。覚えていないわけじゃなくて、知らない。失った物を「思い出す」ことなんてできないから。
「さて、話が長くなりそうだな。アルフ、トマトジュースを頼む。二人もそれでいいか?」
 それに頷いてくれたからよかったものの、この屋敷にはトマトジュース以外の飲み物なんてないに等しい。
 僕はマスターに頼まれて、部屋を後にする。どうか僕が戻るまで、話の続きはしないでくださいね。ぱたぱたと廊下を走りながらそう願った。頭の中はあれからごちゃごちゃとしたままだ。

 ちょうどその頃、トーンから一つ西へ行った街に彼らはいた。せわしなく走り回る店員達に、楽しそうに談笑を繰り広げる客。小さめだが、かなり繁盛していて賑やかな食堂だ。
「あまり人に聞かれたくない話をするときは、これぐらい騒がしい場所がいいんだ」
 リックが運ばれてきた料理をさっそくつまみながら自慢げに言う。
「てことは、今からそんな話をするのか?」
「名乗ることを理不尽に禁止されたままじゃ納得いかないだろ? 特別に理由を教えてやるよ」
「かなり深刻そうな理由だが、俺が聞いてもいいのか?」
 殺されかけたときのことを思い出しているのだろう。聞きたいが安易に聞いてはいけないような気がして、自分に関わることだというのに遠慮がちに尋ねる。
「いいさ。あれから十年経った。そろそろあいつも、自分の口から話せるくらいには気持ちに整理がついてるはずだ」
 だからいいのだと言う。
「じゃあ聞かせてくれ」
 ここでようやくサブレは食事に手をつけた。
「十年前、ハロルドがビビッド地方のキャナリーに住んでいたときの話だ。あそこは冬も暖かくていいところだぞ。で、そこの人間の娘とハロルドは恋に落ち、愛し合うようになった。これがそもそもの始まりだ」
 ゆっくりと語り始めた。
「女の名前はソフィア。これがまたきれいな娘なんだ。今度紹介してやるよ」
 ところどころ私情を交えながら。