09 家出少年
 いつも通りの何もない一日。町の人の手伝いをして、トマトジュースを飲んで、本を読み、アルフに血を与える。そんな日常。そこに予定外の訪問者が現れた。
「ハロルドさーん!」
 玄関の扉を開けて叫んでいる。普段は礼儀正しい素直な子だというのに、たまに見せる常識のなさはあの赤毛のせいだろうな。階段を下りながら見えたのはあの赤毛そっくりな色で、私を見つけると走り寄ってきた。
「どうしたんだ、イアン。一人なのか?」
 彼の後に続いて入ってくるかと思えば、誰もいない。不思議に思って聞いてみると、考えもしなかった答えが返ってきた。
「うん! 僕、家出してきたの!」
 満面の笑みに、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「……それにしてもよくここまで一人で来られたな」
 あまりの衝撃に話をそらしてしまう。階段を上りながら楽しそうに笑うその子は本当に家出少年なのだろうか。単に遊びに来たとしか思えない。
「トーンまでの道は知ってたから、そこからとにかく北に走れば知ってる道に出ると思って走ってたら、ちゃんと近くまで来られたんだ」
 まるで親にほめられるのを待つ子どものようで、私は無意識的にイアンの頭をなでていた。
「迷子にならなくてよかった」
 小さな声で呟いて、さっきまでいた談話室の扉を開けた。
「アルフ」
 短く呼べば、イスに座ったままこちらを向いた。しかし来客とわかると、慌てて立ち上がり、今まで読んでいた本をイスの上に置く。
「失礼いたしました! 初めまして、この間の冬からマスターにお世話になっているアルフです」
「えっと、初めまして! 僕はハロルドさんの友達の息子でイアン・バースっていいます」
 お互いよろしく、と微笑みあう姿を見て「満点」とか思ってしまった私はもう立派な親ばかだと思う。子どももいないのに。
「さあ、外でも屋敷の中でも、好きなところで遊んでおいで」
 そう言って、まだぎこちなさの見える二人を扉の外へ追いやった。イアンは終始笑顔だったが、アルフは少し不安そうな表情で私を見ていた。リックだけではなく、同年代の友人もいた方がいいだろうというお節介な理由で、
「大丈夫だ、行ってきなさい」
 そのままイアンに連れ出してもらった。できるだけの優しい声と笑顔で送り出すと、いくらか表情が和らいだように見えた。きっとイアンなら大丈夫だ。心の中でそう呟き、遠ざかる足音を聞きながら、アルフが座っていた場所に腰掛けた。

 談話室を出た僕たち二人は、屋敷探検という名の散歩にくりだした。隣でにこやかに笑う彼は、名前と髪色から察するに、あの冬の日に来た人の息子だろう。リックさんとは別の、マスターの友人だ。忘れるはずもないあの日のこと。でも、あの人の息子だというのに、警戒していることが馬鹿らしくなるくらいの笑顔を僕に向けてくる。否定しないのだろうか。
「一人で来るのは初めてだから、色々見て回れて楽しいな」
 見た目は僕と同じくらいだけど、きっと僕よりずっと長く生きている。吸血鬼の年齢換算はよく分からないけど。そしてコウモリである僕は、従者になった時点でこれ以上成長することがないから、彼だけ大きくなっていくんだろうな。
「あの、今日はどうしてこちらに?」
 聞くに聞けなかったことを口にしてみた。
「僕ね、家出してきたの!」
 思いもよらない答えが。
「では、ご家族には内緒ですか?」
「そうだよ! 内緒って何だか素敵だよね」
 このことをマスターはご存じなのだろうか。いや、たぶん来てすぐに理由を聞いたに違いない。今ごろこの子の父親にコウモリを飛ばしているはずだ。
「ところで、アルフ君って」
「あ、僕のことはどうぞアルフ、とお呼びください」 「わかった! じゃあアルフも僕のことはイアンって呼んでね。あと、普通にしゃべってよ。何だかくすぐったいから」
 どこか照れたようにお願いされる。
「それはできません」
 だって、僕は。
「どうして?」
 無邪気な顔が僕を見る。精神年齢っていうのは、やっぱり見た目と比例して成長していくものなのかな。
「どうしてって、僕は……コウモリですから。それに」
「えー、そんなの気にしないよ?」
「それに、僕の方がずっと年下です」
 コウモリだということにはどうやら気づいていたらしい。一体どこで気がつくんだろう。
「僕、ハロルドさんにも普通にしゃべってるよ?」
「それは、マスターの友人の息子さんですから」
「だったら僕たちも友達になればいいんだよ! ね、そうしよう! なんだ簡単なことじゃない」
 始めからそうすればよかったと大はしゃぎしている彼の前で、僕は何も言えなくなっていた。
「もう決まりだからね! 行こう、アルフ!」
 あの人のことはあまり知らないけれど、多少強引なところは親譲りなのかもしれない。でも、それでも僕は嬉しかった。
「ありがとう、イアン」
 聞こえなかったかもしれないけれど、僕が言いたかっただけだからいい。ありがとう。

 外はともかく、屋敷の中は静かなので、よく声も響く。どこからか聞こえてくる元気な声に、仲良くやっているようだと嬉しくなった。さて。窓を開けてコウモリを呼ぶ。アルフ以外を使うのは久しぶりだな。というか、あの子が来てからは初めてのことか。
 夜になり、外も静かになる。イアンにはトマトジュースを出してやった。街の人たちに頼めば血をくれたとは思うが、何となくそれはしたくなかった。それに、血を飲まないからって死ぬことはない。
「イアン」
「なあに、ハロルドさん」
 二人は、どこから出してきたのか、ボードゲームで遊んでいる。
「ドロシーにここにいることを伝えておいた」
「え!」
 私を非難するような表情を二人してしているのが、さみしくもあり嬉しくもあった。
「大丈夫。今日も明日もいたらいい。好きなときに帰りなさい。ライナスがうるさいだろうが、ドロシーが何とかしてくれるだろ」
 そう言うと、彼らは目を見合わせ、一気に表情をはじけさせた。ものすごく喜んでいるのが見て取れる。脳裏にライナスの状態を思い浮かべながら、私は微笑んで二人を見ていた。さて、いつまで我慢できるだろうか、あの男は。

 あの後、ドロシーから「息子をよろしく」との伝言が来たっきり、バース家からの接触はなかった。イアンも、特に寂しがる様子もなく、毎日アルフと遊び回っている。まあしかし、そろそろ家が恋しくなってくる頃だろうな。
 そんなある日。
「ハロルドさーん」
「マスター」
 玄関の方から二人が私を呼ぶ声が聞こえてきた。談話室からのそりと出て行くと、どうやらお客が来たようで、二人以外の声がする。ライナスではないな。あいつが来るともっと騒がしくなるだろうから。
「あ! 来た来た!」
 笑顔でこちらを振り返ったイアンの隣にいたのは、見覚えのありすぎる顔だった。
「お久しぶりです」

 イアンとアルフと私、とここまでくれば何ら違和感のない顔ぶれだが、そこに彼女が加わると、なぜだか一気に奇妙にみえてくる。談話室に招いてから、ふとそんなことを思った。彼女に三人掛けのソファをすすめ、私は向かいにある同じ形のそれに座る。いつもはその後ろで立ったままのアルフだが、今日はイアンと一緒に一人用のソファに腰掛けていた。少し大きめとはいえ、それは窮屈じゃないだろうか。
「お久しぶりです、ハロルドさん」
 再びそう言った彼女は大きな丸い目を少しだけ細めて、きれいに微笑んだ。
「ああ、久しぶりだな、ソフィア」
 ソフィアは吸血鬼だ。かわいらしいともきれいともとれる顔立ちで、ふわふわとした髪は、風もないのに揺れているように感じる。
「今はこの村の隣、フィルバートに滞在しているんです。それで、少し余裕ができたので寄ってみました」
「旅をされているんですか?」
 アルフが尋ねた。人見知りは徐々になくなってきているようだ。それとも、イアンのおかげか。
「ええ。絵を描きながらね。楽しいのよ?」
 旅先の思い出を聞く限りでは本当にいつも楽しそうだ。
「街にいる間は住み込みで働いたりして、で、働いてる間も暇を見つけては絵を描いてる。そんな生活なの」
「その絵は売らないんですか?」
「売ってるんだけどね、中々買い手がいないのよ。……主にハロルドさんしか」
 困ったように彼女が言うと、一人掛けのソファから四つの瞳がこちらに向けられた。
「いつもありがとうございます」
 座りながらだが、深々とお礼を言われる。
「こちらこそいつもいい物をありがとう」
 寂れたこの屋敷がどこか明るく感じるのは、そこかしこに掛けられた彼女から買った絵のおかげだ。
 しばらく談笑を続けていると、ドアを叩く音が、ゆっくりだが確かに屋敷中に響き渡った。
「あ、僕が見てきます」
 すばやく立ち上がるアルフ。私の知り合いだったら、きっとそのままここに連れてきてくれるはずだ。
「頼む」
「じゃあ僕はソフィアと遊んでくる! ね、いいでしょ?」
 遊び相手に誘われるのはいつものことなのだろう。快い返事を聞くと、イアンはソフィアを連れ立って出て行った。……あっと言う間に一人になってしまった。遠くの方で様々な音が聞こえるが、静かだと感じる。今日はよく客の来る日だが、一体今度は誰だったのか。