05 その怒りは誰のために
 アルフに文字を教え始めてから幾日か経ったある日のこと。いつものようにダイニングのテーブルに向かい合って座り、書きながら覚えようとしている彼の前で、私は本を読んでいた。
「あ」
 視界の端に黒い物がちらついたので、窓の方へ目をやると、コウモリが一匹。部屋へ入ってこようとバタバタ飛び回っているのが見えた。
「誰だ?」
 大抵こういう場合は、コウモリを使った伝言か何かで、つまりこいつは知り合いから放たれたコウモリなのだ。
 窓を開けてやると、中にするりと入ってきた。と同時に、伝言が垂れ流される。
「今から行くから待ってて!」
 名前がない。電話のように声そのものを届けるでもなく、手紙のように筆跡を届けるでもないこの伝言方法では、名前がなければ誰だか分からない。基本的には。先程から繰り返され続けている
「今から行くから待ってて!」
 というこの言葉と、自分の名前を言い忘れるような奴に心当たりがないわけではない。だが、当たっているかどうかも分からない。そもそも、一体どこから来るというのだ。情報が少なすぎる。
「マスター!」
 頭をグルグルと悩ませていると、隣から大声で呼びかけられた。どうやら一度目ではないらしく、服を引っ張るというおまけまでついている。
「ああ、すまない。どうした?」
「これって、止まらないんですか?」
 顔をしかめながらそう尋ねてくる。
「そうだな、少しうるさかったな」
 開け放したままの窓へコウモリを追い立てた。どうりで寒いわけだと思いながら窓を閉めると、叩かれるドアの音。
「もしかして、伝言の人でしょうか」
 随分と早い到着だが、きっとそうだろう。
「たぶんな」
 答えながらドアへと向かう。大方予想はついた。さあ、どんな文句を言ってやろうか。
「やあ!」
 ドアを開けると、もう一度閉めたくなるくらい満面の笑みが視界に広がった。とりあえず怒鳴り散らすために腕を引っ張り、中へ入れる。
「ライナス。あの伝言はなんだ!」
「何って、だから今から行くっていう伝言だろ?」
 本人はいたって真面目な様子だ。大きなため息をついてみせると、不思議そうな顔で見られた。
「せめて名前だけは伝えてくれ……」
「ああ! すっかり忘れてた」
 言いながらニコニコと笑うライナスの表情が、ふと、固まった。笑ったまま、固まった。どうしたのかと視線の先に目をやると、そこにはアルフが。
「そう言えば、私もすっかり忘れていた。アルフ、自己紹介を」
 一歩後ろにいたアルフを前に来るように促し、ライナスの目の前まで持ってくる。やつは今だ固まったままだ。
「あ、あの、先日からマスターの元でお世話になっています、アルフです。どうぞよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げて、再び私の後ろに立つ。リックに対しては感じなかったが、人見知りなのだろうか。
「ハロルド」
 ライナスから声があがった。固まったままの表情は変わり、なぜかそれが険しくなっている。私を呼ぶ声もいつもとは違い、どこか緊張しているように感じた。
「何だ?」
 つられて私も怪訝な表情になる。異様な雰囲気に、後ろのアルフもさらに緊張したのが分かった。
「今、こいつはなんて言った?」
「聞いていなかったのか? 仕方ない。アルフ、もう一度いいか?」
 呆れた。表情が固まっている間、思考も固まっていたっていうのか?
「いや、いい。自己紹介は聞いていた」
 視線はまだアルフに刺さったままだ。
「今、ハロルドのことを『マスター』と言ったか?」
 今度はアルフに尋ねる。
「は、はい」
「お前、コウモリだな」
 それは確信を持った問いのようだった。
「そう、です」
 強張った彼の怖いだろう表情を見つめ返しながら、退き気味に答えた。すると突然、ライナスの雰囲気が怒りに変わった。
「ハロルド! お前、コウモリと契約するって意味を、ちゃんと分かってるよな!」
 ああ、今のこの言葉で、これまで彼がとってきた不可解な行動や言動が理解できた。
「……アルフ、すまないが少し席を外してくれるか?」
 窓を開けると、
「それでは、お話が終わりましたらお呼びください」
 コウモリになって、夜の街へ飛び出していった。彼はまだ、何も知らないから。
「ハロルド!」
 窓を閉めた直後、再び呼ばれる。怒りの中に、悲しみを滲ませた声で。
「分かってる。ちゃんと、分かってる」
 振り向くと、今にも泣き出しそうな顔が目に入った。
「トマトジュースで生きていたっていい! 血を吸うのと大差はない! でも!」
 そこで一度深呼吸をして、静かに言った。
「もう、自分から寿命を縮めるようなことは、しないでくれよ」
 膝を折り、その場にうなだれる。
「そんなつもりでアルフと契約した訳じゃない。確かに、血を吸わない私が、血を分け与えるような契約を結んだ。トマトで全てが補えるとも思っていない。だが、それでもリックより先に死なない自信はある。まあ、ライナスやドロシーより長生きできるなんてのは欠片も期待していないが」
「それはいい、覚悟はしてる。……じゃあ、どうして契約なんか」
 顔を上げた。
「私にもよく分からない」
 聞かれると困る問題だ。案の定、驚き呆れたような表情を浮かべている。
「なりゆきのようなものだった。道ばたで怪我をしているところを拾って手当してやったのが最初だ。そのお礼だとかで、どうしてもとあいつがしつこく言ってきたし、そこまで慕われるのに悪い気もしなかった。寿命のことをすっかり忘れていたとか、そういうのはない。たぶん、それよりも重要なことが頭をよぎったんだと、今ではそう思う」
 長々と語る私の話を、ライナスは静かに聞いている。
「死ぬときに一人じゃないって、きっと、そう考えたんだよ」
 そう告げた後、ライナスは再び俯き、黙ってしまった。彼はこの話を、私の考えを、どう受け止めたのだろうか。私は窓際に立ったままで、ライナスはテーブルの側に跪いたまま。しばらく続いた沈黙を破ったのは、ライナスだった。
「じゃあ」
 表情が見えない。 「死ぬことは考えていないと思っていて大丈夫なんだな」
「ああ。言ったはずだ。リックより先に死なない、と」
 私がそう言うと、ライナスはすっと立ち上がった。だが、まだ俯いている。
「あいつは、あのコウモリはいいやつか?」
「もちろん。それに、かわいい」
「……そうか」
 そしてそのままこちらへ歩いてきて、私の肩に額を乗せた。赤毛が首をくすぐる。
「今度はイアンも連れてくる」
「それは楽しみだな」

 窓を開けて入ってきたのは、刺さるような冷たい空気と、追い出してしまったアルフだった。
「ただいま戻りました」
「すまなかった。追い出すような真似をして」
「いえ、かまいません」
 にっこりと笑顔つきで言ってくれた。
「ところで、あの方は帰られたのですか?」
 部屋を見回しながら尋ねてくる。私はトマトジュースを飲むために冷蔵庫へ向かう。
「話が終わってすぐに帰ったよ。次に訪ねてくるときは、息子も連れてくるそうだ」
「息子、ですか」
「アルフと同じくらいの歳の子だ。きっと仲良くなれる」
 グラスを持って振り向くと、
「楽しみですね」
 にっこりと笑うアルフがいた。