04 短い陽、長い日
 三日も滞在していたリックは、昨日の昼過ぎにやっとこの家を出て行った。あいつ一人がいなくなるだけで、何とも静かなものだ。
「アルフ、トマトジュースをもう一杯頼む」
「はい、ただいま」
 アルフも、リックがいないとあまりやることがないみたいだ。私はトマトジュースでいいし、彼自身も、私の血が食事だ。だが、リックはそうはいかない。普通の食事を必要とするのだ。コウモリの彼はもちろん料理など初めてだが、手先は器用らしく、なかなか上手にしていたと、一緒に作っていたリックが言っていた。見込みがあるそうだ。私と暮らしていくだけではあまり必要としない能力なのが、少し残念なところか。そうじするにしても、アッシュローズの屋敷ならば、一日では到底終わらないほどだが、この家は半日もあれば隅々まですんでしまう。私は暇には慣れているが、彼はどうだろうか。今朝使いに出して買ってきてもらった新聞から顔を上げてみる。
「暇か?」
 机に肘をつき、顔を支えながらぼーっとどこかしらを眺めている彼が目に入った。
「! いえ!」
 明らかに退屈だろうに、私に遠慮しているのか、大きく首を横に振る。必死な姿が可愛らしくて、ついつい笑ってしまった。
「少し、出かけようか」
 そう言って新聞をたたみ、立ち上がった。
「はい!」
 嬉しそうな顔が目に入った。

 特に用事もなく思いつきで家を出てきたので、ぶらぶらと大通りを歩く。今日は少し暖かいからか、人通りが多いように感じた。適当に歩いているだけなので、すぐに飽きてしまうかと思ったが、アルフは何だか楽しそうだ。
「楽しいのか?」
「もちろんです! 見たこともないなものがたくさん!」
 振り返ってそう言う彼の目は輝いている。出てきて正解だったな。
「気になるなら、どこか入ってみるか?」
 再びショーウィンドウに目を奪われているアルフに聞いてみるが
「そんな! 結構です!」
 と、断られてしまった。どうやら遠慮しているらしい。まあ、今日は別にそれでもかまわないか。欲しいと言ったものを全部買ってやれるだけのお金を持っているわけでもないことだし。
 そんな中、去年はなかったであろう店を目聡く見つけてしまった。
「少し、あの店に寄ってもかまわないか?」
「え? あ、はい、もちろんです」
 きょとんとした顔をしながら後ろをついてくる。私達が入っていったのは、書店だった。開け放たれたままの扉から中に入る。古書店のように独特ではないものの、どこか「本屋」だと思わせるような匂いが鼻まで届いてくる。適当にふらついていると、後ろをちょこちょことついてくるアルフに気づいた。
「好きなところへ行っていいんだぞ?」
「でも、僕は字が読めません」
 少し申し訳なさそうな顔をする。そう言われればそうか。つい先日までただのコウモリだったのだ。字を読む必要もなかったわけだから、読めなくて当たり前だ。
「そうだな……、じゃあ、ちょっとついておいで」
 そうして向かった先は
「好きなのを選びなさい」
「これは?」
 子ども向けコーナーの一角。
「文字の読み書きを練習するためのものだ」
 不思議そうに、たくさん並べられたカラフルな表紙をながめている。
「冬の暇な時期には読書が一番だ。文字が読めるようになれば、今日みたいに退屈することは減るだろう。ほら、好きなのを選びなさい。私は別の所にいるから」
 そう言い残して、表紙に目を奪われたままのアルフから去った。
 しばらく本棚を眺め、たまに手に取り、購入する本の吟味をしていると、後ろからコートを引っ張られる。振り向くと、一冊のドリルを大事そうに抱き締めたアルフがいた。
「決まったのか?」
「はい。この絵が、とてもおいしそうだったので」
 はにかんだ笑顔が向けられる。突き出されたそれを見ると、カラフルなデザートが表紙いっぱいにちりばめられていた。
「それは食べられないぞ」
 笑いをこらえながら言って、レジへ向かう。もうすでに自分の物のようにそれを抱えたアルフが
「わかってます」
 と小さく言うのが後ろから聞こえた。本当に、今日は外に出てきてよかったと思う。

 さて、日が傾きだした頃、私達はアパートへ帰ってきた。冷えてきた空気を身に纏い、とんとんと階段を上る。一度も他の住民を見たことのない通路には、やはり今日も誰もいない。錆びた鉄のドアを開くと、昼間の熱をふんだんに蓄えた暖かい部屋があった。
「とりあえず、トマトジュースを」
 買ってきた物をテーブルに置き、上着を脱ぐ。それを受け取ってハンガーラックにかける彼を横目で見ながら、ソファに腰を落ち着けた。すぐにグラスに入った真っ赤な液体が運ばれてくる。一気に飲み干し、そのまま彼に渡した。
「ありがとう」
 私がそう言うと、アルフはにっこりと笑ってその場を去る。そして私は袋から買ったばかりの本を取り出し、何枚か捲った。前書きを読もうとしたところで、気づいた。
「アルフもお腹が空いただろう。こっちへ来なさい」
 パタンと閉じる。
「はい」
 ダイニングのイスに座っていたが、私に呼ばれ、おずおずとそばに寄ってきた。真ん中に座っていたが、右側に少しずれて、アルフが座れるようにする。
「ありがとうございます」
「さあ、どうぞ」
 どうぞ、とは言うものの、私はただ何もせず、首を晒しているだけ。両肩に手が置かれると同時に、少しだけ首を傾げた。
「……失礼します」
 伸び上がって体重をかけてくる彼から緊張が伝わってくる。一瞬の冷たさのあと、蚊に刺されたような痛みが走る。かと思えば、今度は血を舐める暖かい舌の感触。本来は血を吸う側の私が、逆に血を与えるというのは、何だか不思議な感覚だ。そんな風に考えていると
「ごちそうさまでした」
 と声が聞こえ、私の首筋から離れていく気配が。どうやら食事が終わったようだ。噛まれたところに手をやってみる。少しぬるっとしたが、もう血は止まっていた。そして赤色がついてしまった手を洗うために立ち上がると、つられたように顔を上げるアルフ。彼の口元にも同じ赤がついていた。トマトジュースよりももっと濃い、毒々しいほどに鮮やかな赤が。
「ついてるぞ」
 ふっと笑みをこぼしてそう言い、血のついていない方の手を伸ばして少し拭ってやる。一瞬呆けていたが、何のことだか分かったようで
「す、すいません!」
 流し台へかけて行く。私も手を少し浮かせながら、後を追った。