07
 居住館と書庫を移動するだけの毎日に、そろそろ飽きてきた。狭い世界が少し怖くなった、っていうのもあると思う。街に出てみたくなったのだ。もちろんお城から逃げるつもりはない。ここを出たって、行く宛なんてないんだから。あの優しい王様なら、出かけることを許してくれるだろう。けれど、このあいだ聞いた話の王様は許してくれないかもしれない。力を見せる代わりに、なんてことにはならないだろうか。
 とりあえず一度、麓尺さんを訪ねてみよう。王様のいるところは知っているけれど、きっとそう簡単に会っていい人ではないはずだ。一人で会う勇気も、ない。
 朝食の食器を出してそのまま、一つ上の階へ行った。真上の部屋のドアを、ノックする。まだ麓尺さんはここにいるだろうか。ノックの後、聞き耳を立ててみたが、中で動く気配がない。どうやら、すでに仕事に行ってしまったようだった。そうなると私には検討がつかない。どうしよう。
「――あ」
 扉の前に突っ立ったまま頭を巡らせていると、一つのことに思い当たった。あそこがあるじゃないか。地下の、アオイさんの部屋。そこに麓尺さんが尋ねていた時に、私はホラ貝から放り出されたのだ。かと言って、あの部屋に来る可能性もそれほど高くはない、か。けれどとにかく、知っている人のいるところに行きたかった。人の気配の薄い館に、階段を駆け下りる私の足音が響く。そういえばアオイさんにも、あれ以来会っていなかったっけ。彼は、王様が私にしようとしていることを知っているのだろうか。この不安を話してみたら、止めてくれたりしないだろうか。期待だけが胸で膨らんでいく。
 そうして居住館を出て、広間を横切った。なるべく例の泉は視界に入れないように歩く。いつものことだ。それでも、王子の言葉が頭をちらつくのだから、これくらいの現実逃避は許してほしい。どこか遠くで聞こえる鍛錬の声を背負いながら、本館にたどり着いた。
「もしかして、麓尺さんもあそこにいるのかも」
 しかし今の私の目的地は、アオイさんの部屋に変更されてしまっている。……よし、このまま行こう。ひさしぶりにアオイさんに会いたい、という気持ちが勝った瞬間だった。

 アオイさんの部屋に行かない限りは下ることのない階段部屋を、くるりくるりと降りていく。私の足音は、いただいた靴によってずいぶんとましな音を立てるようになった。なぜだか私はそのとき、ここに来た日のことを思いだしていた。突然現れた見知らぬ人、部屋、刺さる視線。おしりへの衝撃と、その後世界を渡った事実が判明した衝撃。それから今まで、たくさんの不躾な視線にさらされてきた。
 と、ようやく一番下まで来たようだ。あいかわらず、上よりも少しひんやりとする。アオイさんの部屋の前に立ち、扉をノックした。
「佳月です。アオイさん、いますか?」
 三度ノックした後、声をかけてみる。何の音もしなかった向こう側から、ようやくそれで
「ああ、どうぞ」
 という声を手に入れた。

 「ひさしぶりだね、佳月ちゃん。君がここに来てくれないから、全く会えなかった」
「実は、少しお願いしたいことがあるんです」
 記憶の中と変わらない調子で受け答えするアオイさん。それに安心した私は、初めから本題を切り出すことにした。
「何かな。僕にできることだったらいいんだけど」
 私が入室したから仕事を止めたのだろうか。それとも、全く手をつけていないのだろうか。散乱するだけの書類の上に、湯気の立つコーヒーカップが置かれている。食べかけのパンとともに。 「私、一度外に出てみたいんです。外、っていうか街なんですけど。ずっとお城の中にいて、何もしないっていうのも退屈になってきて」
 アオイさんの顔を見ていた視線はだんだん落ちていき、最後には自分の足下へと到達していた。何も言ってくれないから、やはりいけなかったのだろうかと不安になる。
「それは……僕にはできないこと、かな」
 沈黙の後、そう、静かに言われた。だめか。
「外に出て、そのまま家に帰れるかもしれない、って考えたの?」
 あの、ふざけたような口調はそのままだけれど、どこか声が硬い。もしかして
「それは君、無理だよ」
 怒ってる?
 まさかと思って顔をあげると、おもむろに立ち上がったアオイさんがいた。かと思えば歩き出し、私の方ではなくて、たくさんの瓶が置いてある棚に向かう。そこには、私が飛び出してきたホラ貝や、他の貝殻のレプリカがある。最終手段だと思っていた。海に行く手立てがなければ、ホラ貝をどうにかする方法を考えないと、と。私の、最後の希望、とっておきと言ってもよかった。
「――アオイさん?」
 無意識か、腕が上がる。彼はおもむろに、唯一本物だと言っていたホラ貝を、手に取る。嫌な予感が、する。
「この世界を、国を、見捨てていく気かい?」
 手に余るそれは、振り上げられ
「待って!」
 床に、たたきつけられた。
「やめて!」
 それだけでは飽きたらず、力強く、何度も何度も踏みつける。すでに貝は砕けているのに、だ。
「アオイさん! お願い――」
 もう、やめて。わかったから。
「もう、外に出たいなんて、言いませんから。わかりました、から」
 涙が止まらない。無言で貝を踏み続けるアオイさんと、嗚咽をくり返す私。その時間は永遠にも感じられた。部屋から出ようにも、金縛りにでもあったかのように、足が動かない。こんなところには、いたくないのに。体がいうことをきいてくれなかった。
「何を、しているのですか」
 救世主だと、思った。彼の声で、私の金縛りもとけ、アオイさんの足が上がることもなくなったのだ。
「麓尺、さん。ですか?」
 振り返らずに、尋ねる。
「ええ。アオイさん、あなた何を」
 麓尺さんは私の横をすり抜け、砕け散ったホラ貝とアオイさんの方へ、近づいていった。
「それはまさか」
 息を呑むような声が聞こえた。彼が何をしていたのか、わかったのだろう。
「気でも、触れましたか」
 不機嫌そうな声色だけが、届いた。そうして足音は再び私の元へやってくる。
「佳月さん、行きましょう。こんなところに、いつまでもいてはいけない。外の空気を吸いに」
「行くな!」
 肩が、はねた。
「何を馬鹿なことを」
 一方麓尺さんは、いたって冷静である。私をかばうように肩を抱き、部屋の外へと連れ出してくれた。涙がまた、あふれ出してくる。

 「私もう、帰れないかもしれませんね」
 中庭の真ん中にある噴水の縁に、二人並んで座った。頬は、乾いている。
「そんなことありませんよ! きっと、帰る方法があるはずです。来たんですから、帰ることだってできますよ」
「麓尺さんは優しいですね。でも、アオイさんも王様も、あんな人達だったなんて」
 王子の言葉と、先程のアオイさんの行動を思い返していた。
「王様? 王様が何かされたのですか?」
 ゆっくりと、優しく、語りかけてくれる。きっと、答えなくとも彼は何も言わないだろう。けれど私は、あの日暮れのひとときを話した。王様は、私に死ねとおっしゃっているのだと。力なんてないのに。あるかどうかを確かめるために、生死を問う試練を出されるのだと。
 話している間、肩を抱く麓尺さんの力がだんだん強くなっていく。
「もう数日しか生きられないかもしれません。いつ王様が、泉に触れろと言ってくるか。それを考えるのが、あの日から怖くて怖くてしかたないんです」
 その後再び泣き出してしまって、体中の水分を出し切ってしまうかと思うほど、私は泣いた。麓尺さんは何も言わずに、その間中ずっと、ただ隣にいてくれたのだった。