06
 さて、それからしばらく私は、なんということのない日々を過ごしていた。一言で言えば、暇、につきる。食事は初め、食堂で居住館の人達と一緒にとっていたのだけど、視線が痛くて結局今は自室で食べている。みんなもそろそろ慣れればいいのに。いや、無理か。あんなに神格化されている人に瓜二つの私が食堂で自分たちと同じものを食べている、という現実が信じられないのだろう。周りの席はがら空きだし、私のトレイだけ少しばかり品数が多いような気がしていた。ただの似ている別人なのに。そもそも、王様の説明が適当すぎる。この国のことをなんにも知らないお客様だよ、って。そりゃあ不審に思うし、出生が明らかでない分、同一視はされやすくなるだろう。
 どこへ行ったってそんな扱いばかりだから、視線から逃れるように、私は書庫で引きこもる毎日を過ごしていた。ここには滅多に人は来ない。静かで、そしてこの国について学ぶことができる。私がショウカ様について詳しく知ることができたのも、書庫の本のおかげであり、また早咲さんのおかげでもある。
 本館の二階にある、まるで本を開いたような扉を押し開けると、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をついた。
「おはようございます」
 扉の左脇に据え付けられたカウンターの中で本を読んでいる彼女に声をかけた。
「あら、佳月ちゃんおはようございます。今日もいらしたのね」
 彼女が早咲さんだ。私を呼ぶときに「様」をつけない、城内では珍しい人。だからこそ、私は彼女に懐いている。
「はい、来ちゃいました。早咲さん、今日は何を読んでいるんですか」
 カウンターに手をついて、中をのぞき込むように尋ねる。
「昨日と同じよ。この童話シリーズは全十巻あるの。今日はその三巻。佳月ちゃんもどうかしら」
「読んでみたいのは山々なんですけど、海についてもっと調べなきゃいけないから」
 いつか、この人に私が別の世界から来たことを話せたらいいな、と思う。
「そう。時間はたっぷりあるものね。海についての書籍は、ってもう言わなくてもご存知よね」
「ですね」
 二人で小さく笑いあって、その場に別れを告げた。
 海から来たのだから、こちらの海に行けば、元いた場所に帰ることができるかもしれない。そう私は考えていた。アオイさんの部屋にある、例のホラ貝。イソギンチャクが私を吸い込んだのだし、ホラ貝ももしや吸い込んでくれるんじゃないかと考えたこともある。結果は見ての通り、失敗に終わった。飲み込まれていく気配なんて、みじんも感じられなかった。だから、海のことを調べ始めたのだ。しかし、憧れの存在であるだけあって、信憑性のある資料がほとんどないのが現状だ。磯があって、イソギンチャクがあるかどうかも明確に知ることはできない。落ち込むことは多々あれど、この世界の人達の憧れに対する書き方はとてもおもしろいので、その点に関しては読み物としては抜群だった。
 今日も一人、ため息をつく。
「だめだったなあ」
 小さく声を漏らす。机の上に積んでいた本を返すために、立ち上がった。ふと、視界に入る一人の男の子。そういえば、彼も時々ここで見かける。大人がほとんどの城内では珍しい少年で、居住館に住んでいる誰かの子供だろうか。一般市民がそうそう来られるはずもない書庫での出会いだ。城の関係者であることは明白だった。誰なんだろうか。声をかけてみようか。と、その前に早咲さんに聞いてみよう。本棚に全部返した後、なるべく足音を消してカウンターに近寄っていった。
「早咲さん、早咲さん」
「はいはい。どうしましたか」
 読んでいた本から顔を上げて、にっこり笑って言う。
「たまにここで見かける男の子なんですけど、どなたの息子さんなのかなって」
「まあ。佳月ちゃんったらご存知なかったのね」
 驚いた拍子に眼鏡が少しずれる。それをなおしてから、いつも通りの笑顔で
「あの方は、国王の息子であらせられる、桜王子よ」
 と答えてくれた。
「え」
 思わず大きな声が出そうになって、慌てて両手で口を覆う。常識知らずにもほどがあるだろう、私。でも、尋ねたのが早咲さんでよかった。今の話を聞かれていなかっただろうかと、急いで辺りを見渡した。すると、ちょうと後方にいて、こちらに近づいてきているところだった。もう書庫から出るのだろうか。声をかけていいかどうか迷っていると
「今日はもうお帰りですか」
 立ち上がった早咲さんが、言った。所作は、さすが、と言ったところだろう。あれ以来会っていないが、王様に通じるものがある。
「はい。時間ですから」
「そうですか。……王子、こちら」
「父から聞いています。僕は一色桜。あなたは、佳月さんというのでしょう」
 突然話題の的がこちらに向いて、頭が追いついていない間に、先に自己紹介をさせてしまった。
「あ、はい。紹介が遅れてすみません。佳月です」
 勢いよく頭を下げる。視線を元に戻したとき、こちらをじっと見つめる深い碧と目があった。
「あの」
 あまりにもそのまま見つめられて、少し居心地が悪くなってしまい声をかけてみる。理由はわかっているのだけど。
「――失礼。聞いたとおりと言うか、それ以上と言うか。確かに、よく似ていますね」
「私も、そう思います」
 困ったように笑うものだから、私も苦笑しながら言った。
「罪の泉、あれを見ましたか」
 突拍子もない話の転換。だけど、私の顔つながりでいうと、そんなに離れた話題でもないか。
「一度だけ」
「触れて、みましたか」
「王子!」
 今まで黙って話を聞いていた早咲さんが、声を荒げる。驚いた私は彼女を見たが、王子の方はさほど驚きもなかったようだった。
「けれど、皆が思っていることでしょう。期待していることでしょう。あなたが、ショウカ様と同じ力を持つのではないか、と」
 これを聞くのは二度目だ。一度目は、アオイさんが言っていた。あの時は意味がわからなかったが、今ではもう、知っている。
「私には、わかりません。知りたいとも思いませんし、触れる勇気もありません」
 泉に落ちた罪が償われたとき、力を持つ者が水に触れると、その罪は昇華されるのだそうだ。その役を代々担ってきたのが、この国の王族から生まれる女子らしい。しかし、力のない者が触れると罪に呑まれてしまうのだと書いてあった。
「そもそも私の生まれは、この国ではありませんから」
「そうでしたね。重ね重ね失礼しました。ですが、もう一方の力は」
 この子は、一体何に縋っているのだろうか。
「あれは、あの受け継がれなかった力こそ、彼女特有のものでしたのでしょう。私には、欠片も感じることができません」
「そう、ですか」
 やっぱり困ったようにほほ笑んで、そして今度こそ引き下がってくれた。
「しかし父は、納得しないでしょう。近いうち、泉に触れる機会が現れます」
「そんな」
 悲観するように言ったのは早咲さんだ。私はただ、息を吸うことしかできなかった。
「僕はあなたに力があることを、望んでいます。それでは、長々とお話してしまいましたが、これで」
 夕暮れの中去っていく姿を見送ることはできなかった。いつも柔らかな雰囲気をまとう、早咲さんの周りの空気が硬くなっている。あんなに優しそうに見えた王様が、私に生死を問うようなまねをしようというのか。
「早咲さん、私」
 ならせめて、何も知らない間に試してくれたらよかったのに。
「怖いよ」
 力が抜けて、へたり込んでしまった。情けなく歪んだ顔に、涙はない。だけど、自分を守るように、私は肩を抱いた。
「佳月ちゃん」
 カウンターから出てきた早咲さんが、後ろから抱きしめてくれた。王子の言葉が、耳に残る。