05
 「罪の泉」とやらにはあれ以上近寄らず、その後は何事もなく居住館がある所まで歩いてきた。
「ここが居住館。城下町に家のない兵士や騎士、使用人が寝泊まりをしています」
 本館よりは幾分か小さいが、それでも一体何人が寝泊まりできるのか予想もできないほどには大きな建物である。左端にあった扉から入り、そのまま目の前の階段を上がった。
「あなたにはこちらに住んでいただきます」
 案内されたのは階段のすぐ横にある部屋。
「麓尺さんは?」
「私ですか? 私の部屋はここのちょうど真上ですね。何かあれば気軽にどうぞ」
 麓尺さんに渡された鍵で扉を開け、中に入ってみる。思わず感嘆の声を漏らした。まるで高級ホテルの一室のようだ。部屋の隅々まで見て回り、落ち着かない。
「すごい。私ほんとにこんなところに住んでいいの」
 ほとんど独り言として呟いた言葉に、小さな笑いが返ってきた。少し恥ずかしくなって振り向くと、案の定麓尺さんが笑っている。この人、こんな風に笑ったりするんだ。
「ああ、すみません。あなたが子供のようにはしゃいでいるものですから」
「……だってほんとにすごいんだもん」
「すごい、ですか。私はずっとここに住んでいますから、あなたの言うすごいが分からなくて残念です」
 さっき、城下町に家のない騎士が住むって言ってたけど、麓尺さんもそうなんだよね。でも、ずっとってどのくらいなんだろう。
「ずっと? ずっとって、いつからここにいるんですか?」
 部屋の真ん中で扉の方を振り返ったまま聞いてみる。
「そうですね。ずっとは、ずっと、です」
 そう言った表情が何だか寂しげに見えて、それ以上追求する気にはなれなかった。
「では、夕食はこちらに持ってこさせますから、今日はもうゆっくり休んでください」
「あ、はい。おやすみなさい」
 とっさのことで、小さく手を挙げてあいさつをしてみたら、なんと麓尺さんも
「! おやすみなさい」
 一瞬驚いたようにしたものの、はにかみながら手を挙げてくれた。ぱたりと閉まる扉。少し高鳴る胸。
「あんなの反則だって」
 ここに来てからほとんど表情の変わらない麓尺さんしか見てなかったのに、急に笑ったりするんだもん。特に居住館だとあれかな、家みたいなものだから気が緩んだりするのかな。
 その後私は、自分の部屋のベッドより断然柔らかいそこに勢いよく倒れ込んで、しばらくそのままでいた。しばらくって言っても、ご飯を持ってきてくれた人が来るまで、だけど。

 ――コン、コン、コン。ゆっくりと、扉が三度ノックされた。
「はい?」
「お食事をお持ちいたしました。開けてもよろしいでしょうか」
 ベッドから起きあがり、
「どうぞ」
 と返した。
「失礼いたします」
 片手でお盆を持ち、器用に扉を開けて一人の女性が現れた。真っ黒なドレスに真っ白なエプロンを身につけた、まさにメイドさん。けれども、スカートは膨らんでいないし、丈もそこまで短くはない。本当に仕事着としてそれを着ているらしいことは一目瞭然だった。
 下げていた頭を上げ、落とした視線を私に合わせると、彼女が息をのんだ。その反応はまだ二度目なのに、すでに飽き飽きしてしまっている。いつかこれに慣れる日がくるんだろうか。
「似てます、よね」
「も、申し訳ありません! 私!」
 固まっていた彼女が、急に取り乱す。きっと麓尺さんに言われて届けに来ただけなのだろう。私がショウカ様に似ていると知っていたのに、王様は驚いたんだ。知らなかったのなら当然の反応だろう。だって、あれはもう私そのものだった。
「いいんです! 私も、自分で似てるなって思いましたから」
 目を閉じなくても、思い出そうとしなくてもよみがえるあの肖像画。
「そこのテーブルに、置いてもらえますか?」
 この話を終わらせたくて、部屋の隅に置かれた丸テーブルをさした。イスが三つ置いてあるが、確かに三人で食事ができるだろう十分な広さがある。
「はい。では、失礼いたします」
 そういえば、まだ部屋の外に立っていたのか。扉を閉じながら部屋に入ってくる。そして静かに歩みを進め、指定した場所に音もなくお盆を置いた。
「食べ終わった食器は、どうすればいいんですか?」
「部屋の外に出しておいていただければ、後で回収しに参ります」
 もう、私の顔を見ても何ら表情に変わりはない。
「わかりました。ありがとうございます。……あの」
 テーブルの隣にきちんと立ったまま、私に受け答えしてくれる。
「歳、同じくらいですよね、たぶん」
「え、あ、はい。おそらく」
「私、佳月って言います。あなたは?」
 ぱちくりと目を閉じてまた開く。真っ黒の目が、わずか開いた。
「私は千鶴、と申します。佳月様は、使用人の名前を気にされるのですね」
 驚いた原因はこれか。私の世界では、というか私の家や周りは使用人を雇うほど裕福じゃなかったから、何が普通で何が珍しいことなのかわからない。使用人の名前は尋ねないのが普通なのだろうか。
「友達になりたいと思ったから」
 今度は目だけでなく、顔全体で驚きを表していた。こちらに来てから初めて出会った女の子だからかもしれない。歳が近そうだったからそう思うのかもしれない。何にせよ、私はこの人と仲良くなってみたかった。
「どう聞いているかは知らないけど、私は誰かに仕えられるような人間じゃない。だから敬語もやめてほしいし、名前も呼び捨てにして。様だなんて、くすぐったくて。お願い」
 思わず苦笑をこぼすと、彼女も同じようにした。
「――わかった。降参」
 首を傾けた拍子に、綺麗な黒髪がさらりとその動きに倣った。
「やった」
「でも、その顔に呼び捨てなんて難しいから佳月ちゃんで許して」
 雰囲気ががらりと変わる。
「それで十分。ありがとう」
 よくよく見れば中性的な顔立ちで、ともすればエプロンドレスより執事の制服の方が似合いそうだ。まだこの世界の執事さんに会ってないからどうかはわからないけど。
「じゃ、そろそろ行くか。仕事はこれで終わったけど、私もご飯食べなきゃ」
「そっか。色々ありがとう」
「こっちこそありがとう。嬉しかった」
 にっこり笑って私の前から去っていく。扉を閉める間際、顔だけこちらに向けて
「おやすみ」
 と。麓尺さんよりかっこいい去り方で、何だかおかしかった。
 これが、私と千鶴の出会い。