01
 海に来ていた。海といっても、砂浜ではなく磯のほうだ。そこでイソギンチャクを見つけては、近くにはりついている貝を貢いでまわっていた。おもしろいほど簡単に飲み込まれてしまう貝たち。殻を吐き出すところを見たことがないので、全部丸呑みにして溶かしてしまうんだろうか。とか考えてみる。答えは出ないけど。次のイソギンチャクを見つけたとき、私が貝を貢ぐ前に、そいつは自分で食料を捕まえていた。小型のカニだ。自分と同じくらいの大きさのカニの足を、そのうにうにと動く触手で絡めとっている。必死に逃げようとしているカニ。離すまいとがんばっているイソギンチャク。見ているうちに何だかカニがかわいそうになってきた。今までさんざん貝をつっこんでいたくせに、だ。自分勝手だな、と思いながらカニを救出してやった。
「あとで貝あげるからさ、見逃してやってよ」
 そのとき、ちょこっとだけ触手に指先が触れた。なんというか吸いついてくる感じで、少しおもしろい。つまりはその感触を気に入ってしまったのだ。だから、人差し指をそのイソギンチャクにつっこんでみることにした。どこまでいくんだろうか。あれよあれよと言う間に、指一本くわえこまれてしまった。
「え、うそ」
 それでもまだ奥があるような気がする。とか考えているうちに右手首が見えなくなった。
「ちょっと! 何これ!」
 叫んでも誰一人助けには現れない。わざわざ人気のない日を選んだ過去の自分が悪い。しかし、この状況はおかしすぎる。親指の爪ほどしかないイソギンチャクに、人間の私が吸い込まれているのだ。すごい力で。
「誰かっ」
 助けて、の言葉は空気を震わせることができただろうか。何しろ私は、その頃には頭をイソギンチャクにつっこんでいたものだから、よくわからない。意識もそこで、とぎれた。

 長い長いすべり台のようなものを滑走中。これが目覚めた後の私の状況だ。いつまで続くんだろうか。速度もそんなに速くないから、怖さなんてかけらもない。それより、イソギンチャクの中はこんな風になっていたのか。そりゃあ貝殻も吐き出されないわけだ。……て、そんなわけあってたまるか。
「そろそろ飽きてきたな」
 あくびが出始める。寝ても大丈夫かな。ダメかな。
「いや、大丈夫でしょ」
 根拠のない自信でもって、私は目を閉じた。先の見えないすべり台はもう、飽きた。

 ぎっしりと本がつめこまれた棚。あるいは、中身をじっくり見たくないようなビンが所狭しと並べられた棚。あるいは、大小様々な箱がまばらに置かれた棚。そんな棚がいくつもある部屋の中に男はいた。中央にあるそれほど大きくはないテーブルの上には、乱雑に置かれた書類が。それを目の前に、彼は悠々とコーヒーを飲んでいた。メガネのよく似合う、整った顔立ちだ。それを隠すようなぼさぼさの髪と、よれよれの白衣。だらしない姿勢。そして、ふと彼が目線を上げたとき、部屋の扉がノックされた。
「麓尺です」
「ああ、君か。どうぞ、鍵は開いているよ」
 姿勢はそのままに、カップをテーブルの上に置き、麓尺と名乗る彼を迎え入れる。
「失礼します」
 そう言って入って来るなり表情を歪めた。
「ちゃんと仕事してください」
「してるとも! 今は休憩中なだけだよ」
「私が来るときはいつも休憩しているような気がするのですが」
「それは君のタイミングのせいか、あるいは勘違いだろう」
 ゆるく笑う。
「で、今度は何の用? また仕事が増えるのかな?」
「そのようです。相変わらず極秘扱いのものなので、私には内容は知らされていません。ご自分で、必ず、しっかりと、確認してください」
 ドア付近に立っていた彼は、テーブルに歩み寄り、その腕に抱えた紙の束を静かに置いた。
「頼みましたよ」
 最後の念押しとばかりに目を見て強く言うと、きびすを返し、さっさと部屋を出て行こうとする。
「まあまあ待ちなよ。コーヒーでも飲んでいけば?」
「あいにくですが、私はアオイさんほど暇ではありませんので」
 顔だけで振り返り、きっぱりと断る。
「残念」
 全く残念そうに見えない顔でそう言ったとき、ドアに一番近い棚にあるホラ貝が、音を立てて揺れ出した。
「……アオイさん、これは?」
 麓尺が不安を抱きながら彼を見やると、輝かんばかりの表情で立ち上がっていた。
「分からない。でもこれは、きっとおもしろいことだ」
 よりいっそう大きく揺れ、ホラ貝が棚から落ちていく。すると、穴から小さな何かが放り出された。落ちていくホラ貝。だんだんと大きくなっていく何か。ずいぶんとゆっくりになった時間は、大きな音で元通りになった。
「いたっ!」
 大きくなった少女が床におしりを打ちつけたのだ。
「き、君は」
 アオイが興奮した状態で彼女に近づいていく。
「アオイさん!」
 そんな彼と彼女の間に麓尺が割り込んだ。
「落ち着いてください!」
「ちょっと、何これ、え? どこなの、ここは」
 彼女の声に、騒動がいったん中断された。
「初めまして、お嬢さん」
 そう言ったのは、麓尺の横をすり抜けて前に出たアオイだった。